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悼む人 / 天童荒太

えっと、残暑です。

モンハン4がもうすぐ発売日、というわけで
FF4、FFタクティクスをiPhoneでクリアーして以来、ゲームを控えておりまして。
久しぶりに、ほんっと久しぶりに、本を買って読んだりしたので、ブログも。

5ヶ月ぶりとかなんじゃなかろうか…本読むの。
今の彼と付き合って以来、読んだ記憶ないものo(^o^)o

その反動か、先週1週間で「悼む人」上下巻を読み終わり、
今は谷崎潤一郎「鍵/なんとか老人」を半分読んだとこです。
週明けからの札幌出張のために買ったんだけど、もう1冊調達する必要がありそうー。

出張が、モンハン発売日の前だと知ったときの、私のやるせなさったら。
枕濡らしたわまじで

仕事は相変わらずの営業部。
前回のブログでも少し触れたけど、なかなか上手くいっておらず、相変わらず自信がもてなくて
けっこう、ここ2、3ヶ月は苦しんでいます。
もうね、びっくりするくらい人が辞めていく。今年度。

新卒たちが辞めたり長期休暇だったりはあいつらのメンタル的な問題もあるとして
1~3年目と、上層部の間が、ぽっかりですよ。
ジェンガでもやってんのかっていう。

あ、そういえば、引っ越します。
というか、同棲をします。再来月の更新に合わせて。

十何年来の付き合いの友達たちはみんな目を丸くして
私の変わりようにびっくりしているご様子。
そして口を揃えて、「おまえ人と住めるのか!」と言いやがります。

とりあえず、近々、父親にその報告をしに久々実家に帰ろうと思います(ゝω∂)


ひさびさ読書感想

 

「悼む人」 天童荒太

すべての死を同等に扱いたくて
すべての死を覚えていたくて
全国を悼んでまわる男の話。

それを見て偽善だと罵ったり、気味悪がったり
自分も、彼になら悼んでもらえるのだろうかと、淡い期待を抱いたり。

生と死、その2つを2つの単語、2つの次元として捉えたとき
私たちはどちらかでしかない。
どちらかにしか属していない。
生きてる者か、死んでる者か。

でも実際はそうではない、と思う。
生と死は明確に別れてなんかいなくて
死に近い生者もいれば、生に近い死者もいる。

死者の中には、暗い暗い闇の中で何も残さず消えてく者がいる一方で
何十年何百年経ってもその名を人々の胸に刻み、祈られる者もいる。

静人がそれを疑問に思うのもわからなくはない。不公平だと。
死んだらみんな、等しくただの物体だ。

その物体にどんな意味を与えるかは、その死を目の当たりにした人の自由。
でも私は静人のように、すべての死に価値を与えたいとは思えない。

愛には上限があるの。

まあ、静人の行為は「無償の愛」とかでは決してないと思うけど。
彼自身の死へ恐怖とか、死を感じたいって気持ちがあるように感じる。
私は(以前ここで書いたかもしれないけど)、死の実感を得たいがために
凄惨な死をわざわざ目に入れたり、死の空想に想いを馳せたりする。癖がある。

生きている間、隣どおしに、むしろ少し交わっているくらいのところにある「死」を
実感としてまったく得られないことは、とても納得がいかない。
「0じゃないなら、1」というように、自分が死んでないということをきちんと理解できたら
私はその時本当に、生きていることを実感できるし理解できるような気がする。

でも実際、生きてるとか死んでるとかどうでもよくて
私が今ここで
太陽が気持ちいいとか大切な人と笑い合ってて幸せとか
そういうこと感じられてるなら、それはそれでいいのかもしれない。

 

悼む人

悼む人