異邦人 / カミュ

6月ですって!
読書感想も半年ぶりですって!

最近思うのですけど、大学生ってあれですね
暇だっていうのが定説だけど、何だかんだ忙しいひとは忙しいね。
もちろん噂どおり、飲んで寝てばっかしてる人たちもいるわけですが。
意欲的に色々なことに挑戦している子たちは、日々忙しそおだわ。
語学だったり趣味の習い事やサークルだったり
単位にならない特別講義をとってたり。
あたしの周り(サークル以外)にはそういう人が多くて、良い刺激になります。
良い刺激にはなるんだけど
最近、不安が雲のようにまとわりついてくる。ぼんやりとあたしの周りを漂ってる。
あれもやりたいこれもやりたいって思って、けれど中々実際そのように行動は出来なくて
すべて中途半端になってしまいそう。
ふっと気づいたとき、あたしの手には何もないかもしれない。
そんな不安´Д`

自分がつかめることを、見極めなくちゃいけない。
あたしが人生で持っている時間は、限られてるのだから。
そして見極めるためには。
結局色んなことに挑戦してみるほかないわけで。
やる前に怖がっても仕方ない。
「出来るかな、じゃない。やるんだ」
虎井先生が仰ってました。

当たり前っちゃ当たり前だけど
たまに渇入れないと、ビビりっぱなしになりかねん。


さて久しぶりの読書感想。

 

最近、あたしの専修(文芸思想)は本当に非実用的だなあと、つくづく感じる。
今期は哲学講義2個もとってるし、そのせいもあるのかも。
ほんとね、この世界が意識による解釈であるか知覚の束であるかとか
実際どうでもいい話だよ、うん。
あたしたちの目の前に「世界」は広がってるんだもの。
そんなこと考えたって、その世界で生きてくことからは逃れられないんだもの。
まあそうはいっても、くだらない事考える時間、好きなのだけど。
でも実際こういうことばかり考えていて許されるのは、本当に学生までかなあと思います。
というわけで。
哲学講義でサルトルを紹介する際に出てきた、カミュを読みました。


正直、難しい。
ドストエフスキーもそうだったけれど、すごく精神的な話で。

羅生門」を見て強く感じたことを、「異邦人」でも感じた。
現実はひとつじゃないかもしれない、ということだ。
ある現実は、それを認識する人々によって如何様にも歪み変化する。
「異邦人」の主人公ムルソーは、度重なる偶然により、一人のアラビア人を殺害してしまう。本当に不幸な偶然によって。
裁判において検事が熱弁する「事件の真実」は、それ以前にムルソーが体験し述べられてきたものとはほぼ遠い。
だがしかし、彼にとっては恐らくそれが唯一の真実なのである。
読者である我々は、おそらく、前半ムルソーによって語られてきた事件を、真実として捉えるだろう。
けれどそれも、ある男の目を通した"ひとつの現実"であり、必ずしも真実とはいえないかもしれないのだ。

裁判中、非常に問題視されるのが、「ママン」の死に涙を流さなかった主人公の人格だ。
冷徹非道の男と判断された彼の判決は、死刑になってしまう。
彼自身は、決してママンを愛していなかったわけではなかったが
複数のひとびとにうつった現実において、ムルソーは冷徹な男だった。
ひとは、他人と同調し大衆に属すことで安心する生き物。
協調性がなければ疎外される。
ある面において、他人の眼にうつる現実も気にかけ
そのような期待される現実に沿うよう行動しなければ、彼を待っているのは孤立かもしれない。
タイトルの「異邦人」っていうのも、そういうことを指してるんだろうか?

ムルソーは真理の追求に熱心であった、と解説か何かに書いてあった。
唯一の真理なんてものはないかもしれない。
多数の現実を許す姿勢も、必要なのかもしれない。


最近レポート課題多いので、こういう書き方がわりと楽に出てきました
しばらく書いてないと、スムーズに書けないんだよね´Д`
いやしかし、ほんと哲学ってやつはほんとにもう。